赤ベコ 徳島県鳴門市ヘ 会津若松とドイツのつながりを知る旅 - 2013.01.19 Sat
みなさんこんにちは。
今回は僕たちの故郷―福島県会津若松市とつながりのある
徳島県鳴門市へやってきました。

四国に来たからには、お遍路体験。
はじめに、八十八か所めぐり第一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」へ
行ってきました。

霊山寺ですっかり心が洗われた赤ベコさん。
ペコペッコと、歩いていると「ドイツ兵の慰霊碑」にたどりつきました。
徳島県鳴門市にドイツ兵とつながりがあり、
会津若松出身の「松江豊寿」さんが活動された舞台があるというのです。


「板東俘虜収容所」
「第一次世界大戦が始まると、日本も参戦し、
ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。
敗れたドイツ兵士約5000人が俘虜となり、
日本各地の収容所へ送られました。
そのうち、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1000人が
1917年(大正6)年から1920年までの約三年間を
板東俘虜収容所で過ごしました。」
鳴門市ドイツ館パンフレットより

ドイツ兵が残した言葉
「世界のどこにバンドーのような収容所があっただろうか。
世界のどこに、マツエ大佐のような収容所長がいただろうか」
いったい会津若松出身の「マツエ大佐」の業績が残っている
徳島県鳴門市の「板東俘虜収容所」とは、どんな所なのかな。

鳴門市ドイツ館 ミュージアムショップへ。1月15日にいきました。
ここで大きな赤ベコが待っていてくれました。
たくさん遊ばせくれて、ダンケ!です。
鳴門市ドイツ館 ミュージアムショップ

次回から2回にわたって、
会津若松―徳島鳴門―ドイツ(ミュンヘン)へと
赤ベコが旅をします。こうご期待。

にほんブログ村
今回は僕たちの故郷―福島県会津若松市とつながりのある
徳島県鳴門市へやってきました。

四国に来たからには、お遍路体験。
はじめに、八十八か所めぐり第一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」へ
行ってきました。

霊山寺ですっかり心が洗われた赤ベコさん。
ペコペッコと、歩いていると「ドイツ兵の慰霊碑」にたどりつきました。
徳島県鳴門市にドイツ兵とつながりがあり、
会津若松出身の「松江豊寿」さんが活動された舞台があるというのです。


「板東俘虜収容所」
「第一次世界大戦が始まると、日本も参戦し、
ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。
敗れたドイツ兵士約5000人が俘虜となり、
日本各地の収容所へ送られました。
そのうち、四国の徳島・丸亀・松山にいた約1000人が
1917年(大正6)年から1920年までの約三年間を
板東俘虜収容所で過ごしました。」
鳴門市ドイツ館パンフレットより

ドイツ兵が残した言葉
「世界のどこにバンドーのような収容所があっただろうか。
世界のどこに、マツエ大佐のような収容所長がいただろうか」
いったい会津若松出身の「マツエ大佐」の業績が残っている
徳島県鳴門市の「板東俘虜収容所」とは、どんな所なのかな。

鳴門市ドイツ館 ミュージアムショップへ。1月15日にいきました。
ここで大きな赤ベコが待っていてくれました。
たくさん遊ばせくれて、ダンケ!です。
鳴門市ドイツ館 ミュージアムショップ

次回から2回にわたって、
会津若松―徳島鳴門―ドイツ(ミュンヘン)へと
赤ベコが旅をします。こうご期待。

にほんブログ村
● COMMENT ●
日本の看板が懐かしくさえ思います!自分もようやくこちらに慣れてきているとこです。日本からブータンから世界を元気にしていきましょう!
こんにちは。赤べこさんが、鳴門まで行ったのですね~。会津若松と友好親善都市なんて、知らなかった!
赤べコさんコメントありがとうございました。
板東までおいでくださったのですね! ようこそいらっしゃいました! ちごゆりは、板東在住で!実は俘虜収容所併設の公舎で生まれました。松江所長の後、父が大阪から板東に赴任してきたのでした。 戦後生まれの私を残して父が昇天し、父のお参りに来てくださった。松江所長さんが、私を抱いてくださり頭をさすって涙して下さったそうです。私は今も母と暮らした板東に住み続けています。 また山野草を覗いて下さいね。
トラックバック
http://borninjordan.blog.fc2.com/tb.php/21-f02cb5dc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)